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ジェムソン・ウイスキー創業家の孫は、コンゴで少女を買ったのか 遠征記録が残した論争。

1880年代のコンゴを調べていると、どうしても出てくる話がある。当時あまりに広く知られていたので、コンラッドが『闇の奥』の敵役カーツを造形するときの下敷きにしたと多くの人が考えているほどだ。今回の動画が扱うのはその一つ——「ジェムソン・アイリッシュ・ウイスキー創業者の孫は、コンゴで少女を食べさせるために金を払ったのか」という論争だ。「答えはイエスだと思う。おそらく」。語り手はそう前置きしてから話を始める。
国王が丸ごと買った国と、助けに行ったはずの遠征
1800年代後半、ヨーロッパ諸国はゴムや象牙を目当てにアフリカで領土を奪い合っていた。建前は技術と通信と輸送を教える人道的な事業だが、実際にあったのは搾取だけだった、というのが語り手の整理だ。中でも極端なのが、いまのコンゴ民主共和国にあたる地域だった。1885年、ベルギー国王レオポルド2世はここをベルギーの延長にせず、地域全体を買い取って個人所有した。国まるごとが私領なら、他国が抜け道を探して回避していた倫理や交易の規則は最初から関係ない。
エジプト領エクアトリア——いまの南スーダン最南部——の総督エミン・パシャが、ムハンマド・アフマドの反乱でハルツームが陥落したことにより、通信も補給も断たれて孤立した。そこで民間の遠征で救出してはどうかという案が出て、行方不明の宣教師リビングストン博士の捜索で知られる当代随一の探検家、ヘンリー・モートン・スタンリーが指揮者に選ばれた。
ロンドン出発前の演説でスタンリーは、目的は現地の人々と戦うことではなく助けを必要とする一人を救うことだと述べている。ただ、純粋な救助ではなかった。彼はレオポルド2世に個人的に雇われていて、地図の上では東から向かうほうが自然なのに、経路はレオポルドが所有するコンゴ川を遡る形になった。
隊に加わった博物学者ジェームズ・ジェムソンは、ジェムソン・アイリッシュ・ウイスキー創業者ジョン・ジェムソンの孫だった。アフリカで複数の鳥種を初めて同定した実績があり、裕福な生い立ちだが仕事の上では適任だった。
後衛に残された者たち
3月18日にコンゴへ着いたものの通信が途絶えていて、誰も彼らの到着を知らない。現地で物資を調達するしかないのに、誰も取引に応じない。理由はザンジバルで同行させたティップー・ティップだった。史上有数の奴隷商人で、コンゴ川沿いに自前の奴隷を運ぶ交易所を構えていた人物だ。
船も足りず、隊は前衛と後衛に分けられた。前衛は389人で出発し、1888年4月29日にパシャへたどり着いたときは169人。一行が戻ったのは1890年で、スタンリーの『In Darkest Africa』はベストセラーになり、隊員は英雄になった——ただし、後衛に何が起きたのかはほとんど書かれていなかった。
後衛を任されたのは元英軍将校エドマンド・バートロットだ。補給の当てが外れてティップーが去ると、300人以上いた後衛は待つだけになり、食料が尽きた。隊員は近隣の村から人をさらって人質にし、物資と交換しようとする。襲撃と病と脱走が重なり、残ったのは2桁だった。
スタンリーが1890年11月8日の『タイムズ』紙に出した声明には、バートロットが女性に噛みついたこと、鋼鉄の先の付いた杖で隊員を突いて回ったこと、気に入っていたはずの10歳の少年を蹴り殺したことが並ぶ。すべて「〜と聞かされた」という形だ。夜明けの太鼓を止めようと拳銃と杖を持って現場へ行き、太鼓を叩いていた女性を突き、蹴った。悲鳴を聞いた夫サンガが小屋の銃眼から撃ち、バートロットは死んだ。
6枚のハンカチ
それでも人々の記憶に残ったのは、バートロットではなくジェムソンのほうだった。同じ『タイムズ』の記事はこう伝えている。ジェムソンは、その目的のために買った少女が、食人の場面を目撃してスケッチに記録するために殺されるのを傍観した、と。記事の書き手は明らかに戸惑っていて、二人はもう死んでいて反論できないのだから証拠を厳密に見る必要があると断り、スタンリーの根拠の多くは「〜と聞かされた」の繰り返しにすぎず、決定的ではないと釘を刺す。
最初に詳しく語ったのは、ジェムソンの通訳アサド・ファランだ。スタンリーの声明から6日後、彼の宣誓供述書が『ニューヨーク・タイムズ』に載る。リバルバの部族のもとで祭りを見ていたジェムソンが食人を見たいと伝え、ティップーが首長たちと相談したうえで奴隷を買うよう勧めた。払ったのはハンカチ6枚。連れてこられた10歳の少女は木に縛られて殺され、その間ジェムソンは写生をしていた。後で自分のテントで6枚の水彩画に仕上げ、首長たちに見せたという。
翌日、ジェムソンの未亡人が反論を出す。夫が死の2晩前に遠征関係者へ送ったという電報だ。食人の宴が続くのが普通だとティップーが言うので笑って否定したら、あるアラブ人が「布をくれれば見せてやる」と言った。贈り物をせびる口実だと思ってハンカチ6枚を渡した。起きたのは生涯で最も恐ろしい光景で、描く道具も時間も無く、小さな絵は夜に宿舎で描いた——と。
語り手はこの説明を通らないと断じる。他の隊員によればジェムソンは以前から食人に関心を示していたし、日記にもその地域の食人について書いている。通訳ファランの証言も安泰ではない。数年後に本人が撤回し、解雇された腹いせの作り話だったと述べているからだ。それでも語り手は、全部の作り話ではありえないと見る。
現場にいなかったウィリアム・ボニーも、ジェムソンから6枚を見せられ場面を詳しく説明されたと述べている。
論争の前に書かれていたもの
決め手として語り手が置くのは、ジェムソン自身の日記だ。1888年8月17日に熱病で死んだあと、1890年に『The Story of the Rear Column of the Emin Pasha Relief Expedition』として出版されたもので、体面を取り繕う理由がまだ無かった時期の記述にあたる。
そこでジェムソンは、本国では食人の話は「旅行者のほら話」だと思われていると伝えたら、同席のアリというアラブ人が「布をくれれば見せてやる」と言った、と書いている。冗談だと思ってハンカチ6枚を取りにやらせた。連れてこられたのは10歳ほどの少女で、その後に見たものを彼は生涯で最も凄惨な光景と記す。そして、最後の瞬間まで本気だとは信じられなかった、と弁明を添えている。
興奮が去ってから、書き残すには具合が悪いと考えて筆を和らげたのかもしれない——語り手はそう見る。ボニーによれば、ジェムソンはこれを目撃した唯一のヨーロッパ人であることを誇りにしていたという。どちらにせよ、ハンカチ6枚が渡り、それによって少女が殺されたことは動かない。。
世界をより良くし、技術と文明を分け与えるという建前で来た側が、最初の機会に最悪の自分を差し出した。バートロットは振るえるだけ権力を振るい、ジェムソンは記録に憑かれるあまり、見ているのが絵ではないことを忘れた——最も好意的に読めばそうなる。それでもスタンリーが恥を忍んで語ったおかげで、少なくとも一人の少女の記憶が残った。
視聴者の反応
「Astronomical lunch break pull」
高評価 12,903
「Wendi dabbling in short form content now I see.」
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「I appreciate that when a note appears on screen there is a typing sound so a listener can know to look up.」
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「The detail of the little girl not even putting up a fight and just simply accepted it fucked me up」
高評価 4,117
「I didn’t realize that the conspiracy theory that rich people buy snuff films/red rooms went back this far」
高評価 4,028
この説をたどる
最初にあるのは、ハンカチ6枚という代価だ。そこから、通訳の供述書、未亡人が新聞へ持ち込んだ電報、現場にいなかった同僚が見たという6枚の絵、そして本人が論争の起きる前に書いた日記へと、同じ日を語る記述が積み重なっていく。細部は食い違う。誰が言い出したか、いつ撤回したか、どの絵が最後だったか。それでも、布が渡り、少女が死んだという一点だけは、どの記述からも消えない。反論できる者はもう誰も残っていないのに、残された記録のほうが先に口をそろえてしまった、という形だ。ただし出典の示されない伝聞も多く、細部が確定しているわけではない。
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Wendigoon
動画の見どころ
「ジェムソン・アイリッシュ・ウイスキー創業者の孫は、コンゴで少女を食べさせるために金を払ったのか」——語り手は問いを立て、「答えはイエスだと思う。おそらく」と自分の立場を先に示す。
1885年、レオポルド2世はコンゴをベルギーの延長にせず地域全体を買い取って個人所有した。国まるごとが私領なら、他国が回避に苦心した倫理や交易の規則は関係ないと説明される。
救援は名目で、レオポルド2世に雇われたスタンリーは地図上で自然な東回りではなくコンゴ川を遡り、約75トンの象牙も運ぶことになっていたと動画は指摘する。
現地の人々が取引を拒んだのは、遠征がザンジバルで同行させたティップー・ティップのせいだった。コンゴ川沿いに自前の奴隷を運ぶ交易所を構えていた人物だと説明される。
食料が尽きた後衛は近隣の村から人をさらって人質にし、物資と交換しようとした。襲撃と病と脱走が重なり、300人以上いた隊は2桁しか残らなかったという。
夜明けの太鼓を止めようと拳銃と杖を持って現場へ行ったバートロットが女性を突き蹴り、悲鳴を聞いた夫サンガに撃たれて死んだ、というスタンリーの記述。
通訳アサド・ファランの供述書。ジェムソンが食人を見たいと伝え、ハンカチ6枚で少女が連れてこられ、殺される間ジェムソンは写生をしていたとされる中心の場面。
『タイムズ』の記事は、二人はもう反論できないのだから証拠を厳密に見る必要があるとし、スタンリーの根拠の多くは「〜と聞かされた」の繰り返しだと釘を刺す。
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