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未知の輪郭

災害・事故

八甲田雪中行軍、田代まで1.5キロで道を失った地形図の分岐点

文=佐々木 玲

目的地の田代まで、残り約1.5キロ。それでも青森隊は道を見つけられず、雪中で夜を越すことになりました。映像は八甲田雪中行軍遭難事件を地形図に重ね、どの分岐で部隊が戻れなくなったのかを追います。

224キロの弘前隊と40キロの青森隊

行軍の背景には、ロシア軍が青森へ侵攻する事態を想定し、厳冬期に八甲田を越えられるか確かめる目的がありました。38名の弘前隊は地元で情報を集め、224キロを11泊12日で進む計画を成功させました。一方、210名の青森隊は1泊2日・往復40キロの予定でしたが、雪山知識に乏しい隊員が多く、装備も不十分でした。

地元の警告を断り、撤退を見送る

1月23日朝、氷点下16度前後で出発した青森隊は、地元住民による入山中止の警告と案内の申し出を断ったとされます。深雪でそり隊が遅れ、暴風雪の中で撤退案も出ますが、助言を退けた手前のプライドが進軍継続へ作用した、という筋道が示されます。そりは2時間以上遅れ、先遣隊も迷い、午後には荷物を人力で分担して運ぶ状態になりました。

未明の帰営が谷への迷走に変わる

田代まで約1.5キロの地点でビバークしたものの、氷点下20度の中で炊事も雪壕も整わず、食事も睡眠もほとんど取れませんでした。未明に帰営を始めると視界を失い、田代への道を誤認して谷へ下り、川と崖に阻まれました。2日目の迷走は約14時間に及び、死者・行方不明者は70名を超え、指揮系統も崩れていきました。なお、「天は我々を見放した」「各自で下山せよ」という有名な台詞には、実際の発言ではないようだとの留保も置かれます。

救援隊も退いた寒さと、残る証言

救援隊にも凍傷者が相次ぎ、一度は捜索を断念しましたが、全滅の報告を受けて延べ1万人規模の救助活動へ移ります。ここで映像は弘前隊にも目を向け、案内人へ無理な行動を強い、負傷した案内人を残し、経緯の口外を禁じた可能性を挙げますが、この部分は未確認の申し立てとして区切られています。最終的な生存者は210名中11名、死亡者は199名で、遺体収容には約4か月を要しました。

視聴者の反応

  • 地元の方の助言、言い伝えがいかに重要か。。。

    高評価 991

  • わずか1.5kmの距離でも辿り着けない。冬の山は本当に恐ろしいです。負けを認め、諦める勇気も必要だと痛感します

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  • 「田代温泉と言っても何もありません」を聞いた瞬間の絶望感凄い

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  • 弘前隊が、八甲田山を含む11泊12日行軍成功してんのがすごすぎ、、と思ったら地元民見捨てててあまりにひどいな

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  • 八甲田山動画でこれが一番無駄がなくわかりやすくて好きです 弘前隊が貧しい村民にもてなしさせ、案内人を酷使し廃人にしたこと、その後国からの補償もなかったことを知った時は時代が時代とはいえ「雪中行軍大成功!」と喜ぶ気持ちにはなれなかった。 とはいえ隊員が犠牲にならなかったことを考えるとその時その時で正義の形はこうも違うのかと胸が痛む。

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背景

地形図に行程を重ねると、目的地までの直線距離が短くても、視界を失った雪山では谷、川、崖が一つずつ退路を閉ざしていく様子が見えてきます。浮かび上がるのは一度の判断ミスではなく、準備、進軍、帰営、捜索の各段階で選択肢が失われていく過程です。

動画を見る

日曜アカデミー

動画の見どころ

  1. 動画はロシア軍の侵攻想定を背景に、弘前連隊が224キロ・11泊12日の冬季行軍を計画どおり成功させたと説明する。

  2. 一方の青森隊210名は田代まで往復40キロ・1泊2日を予定し、雪山経験や装備が不足していたと動画は対比する。

  3. 1902年1月23日、約マイナス16度の中で地元民の警告を断り、暴風雪でも進行を続けた経緯が語られる。

  4. そり隊が2時間以上遅れ、田代まで約1.5キロの地点で道を見失い、マイナス20度の雪中でビバークしたと説明する。

  5. 真夜中の帰還で駒込川の谷へ迷い込み、2日目に14時間さまよって70名超が死亡・行方不明になったと動画は述べる。

  6. 有名な『天は我々を見放した』という発言について、動画は実際には言っていないようだと留保を付ける。

  7. 延べ1万人の救助活動と並行し、弘前隊が案内人を酷使し、その被害が報告されなかった可能性を動画が主張する。

  8. 各地で遺体と生存者が発見され、210名中11名が生存、199名が死亡し、全遺体の収容に約4か月を要したと結ぶ。

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