災害・事故
洞爺丸はなぜ「台風通過後」に沈んだのか 3D再現が追う判断の連鎖

1954年9月26日、青函連絡船・洞爺丸は函館港外で転覆し、動画によれば乗船者1314人のうち1155人が命を落としました。約1時間42分の映像は、事故を単なる悪天候や一度の判断ミスへ縮めず、気象情報、港の混雑、船体構造が絡み合うまでを3Dで描き出します。
数時間遅れの予報で下した出航判断
当時の台風情報は数時間前の観測に基づき、気象衛星も実用的なレーダー網もなかったとされます。気象判断に長けた近藤平市船長は、台風が17時頃に函館を通過し、18時30分には風が弱まると予測しました。いったん15時10分に出航準備が整いながら、停電で可動橋が止まったため運航を見合わせ、最終的に洞爺丸が函館を離れたのは18時39分でした。
「台風の目」に見えた晴れ間の正体
16時台後半、函館では風が弱まり、雨がやんで青空が現れます。ところが、それは台風本体の通過ではなく、台風から変わった温帯低気圧に伴う閉塞前線が過ぎた後の、一時的な晴れ間だったというのです。前線と低気圧本体という二度の風のピークを見分けられず、洞爺丸は低気圧の強風域へ出てしまった、という筋道です。
車両搬入口から始まった浸水
19時1分、洞爺丸は港外で錨を下ろし、風が静まるのを待ちます。しかし車両搬入口に水密扉はなく、波長が船体とほぼ同じ約120メートルの波が、船尾から繰り返し海水を運び込んだとされます。石炭粉を含む水で排水ポンプが詰まり、21時頃には最大瞬間風速が毎秒58メートル、気圧が956ヘクトパスカルという条件のなかで、機関室の浸水が進みました。左舷、続いて右舷の機関が止まり、22時5分には動力を完全に失います。
七重浜への座礁はなぜ船を救えなかったか
船長は七重浜への座礁を選び、22時26分、船体はいったん海岸沖で止まりました。ところが硬い海底ではなく、波が積み上げた砂に乗っただけで、漂流は止まっても傾きを戻せない状態でした。22時43分に錨鎖が切れると、積載車両12両が横転し、洞爺丸は右舷側へ倒れ込みました。焦点は事故後へ移り、出航判断、船尾の水密扉、船長任せだった運航管理が問題視された経緯まで視野に収めます。
視聴者の反応
「視聴者の皆さま、温かい励ましのコメントありがとうございます!リクエストや10万人到達のお祝いメッセージについてもたくさんいただき、大変うれしく思います!なにぶん一人作業ですので次回作も少しお時間をいただくと思いますが、どうぞ気を長くしてお待ちください!」
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「元青函連絡船乗組員です 詳細な動画ありがとうございます。 以前一緒に乗船していた方は、当時洞爺丸に乗っていて台風の朝、勤務交代で下船したという 方でした 俺の制服は海に沈んでしまったなんて言っていましたが、それ以上詳しくは 聞けませんでした。」
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「ネットで聞きかじった情報で動画上げてるチャンネルとレベルが違うんよ。洞爺丸の構造、当時の天候や政治事情、そして3Dの映像。1時間40分があっという間だったし、過去の犠牲の上に今の安全があると認識させられる内容でした。過去の動画もそうだけどクオリティは凄いと思います。」
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「現役の航海士ですが、船の専門的な知識も分かりやすく噛み砕いて説明されていてびっくりしました。投稿者は何者なんだ…?」
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「すげえな今回 このまま教材に使えるだろ」
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背景
青函連絡船は、鉄道車両を船内のレールへ直接載せ、本州と北海道の物流をつなぐ仕組みでした。船体断面へ長く視線が注がれるのは、その便利さを支えた車両甲板が、事故時には浸水経路と重心上昇の問題にも結びついたからです。
動画を見る
ゆっくりしたい人へ
動画の見どころ
青函連絡船は船内レールへ貨車を直接積み込み、洞爺丸では基本18両を運べたと船体断面で説明される。
1954年の船長が頼れたのは数時間前の無線とラジオで、気象衛星も実用的なレーダー網もなかったと整理される。
晴れ間は台風の目ではなく閉塞前線の通過後で、温帯低気圧本体の暴風が後から来たという動画の中心説明。
水密扉のない車両搬入口と約120メートルの波長が重なり、船尾から繰り返し海水を取り込んだと図解される。
最大瞬間風速58メートルのなか、石炭粉で排水ポンプが詰まり、左右の機関が順に止まっていく。
七重浜への座礁に成功したように見えたが、実際は一時的な砂の堆積に乗り、傾斜を戻せない状態だったとされる。
22時43分に錨鎖が切れ、車両12両の横転とともに洞爺丸が転覆し、1155人が犠牲になったと説明される。
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