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未知の輪郭

都市伝説 / 日本

飛騨川バス転落事故、104人はなぜ引き返した先で失われたのか 深夜の3時間をたどる。

文=林 遼

岐阜県を流れる飛騨川に沿って、名古屋と高山を結ぶ国道41号が走っています。かつて飛騨街道とも呼ばれた、夏はレジャーに冬はスキーにと交通量の多い山間の道です。昭和43年(1968年)8月、この道で104人が川に飲み込まれる事故が起きました。次回の都市伝説編でタクシー幽霊を扱うための前提として、この回はまず災害と事故そのものをたどります。

山頂の天気だけを見て、15台は動き出した

発端は新聞社が企画した乗鞍岳のご来光ツアーでした。高度経済成長期のレジャーブームのただ中で、乗鞍スカイラインの開通も重なり、730人以上が参加してバス15台の車列になったといいます。参加者の大半は名古屋周辺の団地から集まった人たちでした。

ところが8月17日、一帯には猛烈な集中豪雨が降っていました。主催者は日本気象協会の東海支部へ電話を入れ、乗鞍岳山頂は翌日晴れると聞いていた——目的地の空模様だけを見て、正常性バイアスに陥っていたのではないか、というのが動画の見立てです。固定電話と無線しか連絡手段のない時代で、現地と本社とバスの間ですぐに判断を回せません。山間の国道沿いには今のようなコンビニもなく、15台が転回するだけでも相当な場所が要る。引き返すという判断そのものが難しい状況だった、と語られます。大雨警報が出るなかを車列は進み、深夜、道が崩れて初めて引き返す決断が下されました。

前も後ろも塞がれた、8月18日の未明

17日23時33分、休憩に立ち寄った先で、1.5kmほど北の中山七里で土砂崩れが起きていることを知ります。乗用車で並走していた予備乗務員が先に見に行き、すぐの復旧は望めない規模だと確認しました。日付が変わった0時5分頃、車列は反転して名古屋方面へ向かいます。

このとき車列は、先行する6台と後続の9台に分かれていました。後続の9台は高山線白川口駅の駐車場に他の車とともに留まりましたが、先行した6台は駅を過ぎて進みます。0時20分に橋を渡った先で小規模な土砂崩れに遭い、乗務員が豪雨のなかを人力で取り除きました。0時40分頃、今度は大規模な土砂が道路を塞ぎ、バス6台を含む30台近くが動けなくなります。見回っていた白川町消防団の勧告を受け、車列は白川口駅まで戻ることになりました。

しかし戻る道でもトラックが側溝に脱輪し、助けようとする人と車が集まって現場は混乱します。1時35分頃に駅の方向で、1時50分頃には名古屋側の後方でも土砂崩れが発生し、車列は前後を塞がれました。雨は雷を伴って降り続き、1時からの1時間で41mmを記録します。そして2時11分、長さ約100m、幅10mの岩盤が約30度の斜面を滑り落ち、5号車と6号車を飲み込みました。乗っていたのは乗員乗客あわせて107人。増水した川は水深が30mも増していたといいます。生還したのは窓から投げ出された3人だけでした

ダムを閉じて、川の水位を下げる

翌朝10時30分頃、転落現場から約300m下流で5号車が押し潰された状態で見つかりますが、6号車の行方は分かりません。急流と渓谷で知られる川での捜索は難航し、事故から3日後、下流のダムを放流して上流のダムを閉じ、一時的に水位を下げる作戦が提案されて翌日実行されます。世界的にも稀なケースだったと動画は説明します。6号車は転落地点から400m下流で見つかったものの、車内から収容できたのは1人でした。捜索は木曽川の犬山付近から伊勢にまで及び、1か月以上にわたって延べ3万人を超える人員が投入されます。当時はDNA鑑定もなく、身元の特定すら困難でした。今も8人が見つかっていません。

この事故をきっかけに、雨量による通行規制が導入され、日本道路交通情報センターが設立されました。国道41号ではその後も災害が起きていますが、同じ規模のものは免れている、と動画は述べます。事故現場の近くには昭和44年に慰霊の塔が建てられ、車が近づくとサイレンが鳴って注意を促していました。その塔もバイパス工事のために撤去され、今は道の駅へ移されています。

視聴者の反応

  • みんなは災害や事故であわやっ!っという経験はあるかな? 以前、大通り沿いに住んでた時には・・、年に数回は家の前で起こった交通事故の通報をしていました・・・。

編集部から

この回は事故そのものの経過をたどるところまでで、噂の話は次の都市伝説編に譲られています。慰霊碑が移り、現場を迂回するバイパスが通ったあとに何が残るのか——その問いのまま続編へつながる構成です。時刻や人数は動画の解説に沿って記しており、一次資料による裏づけまでは示されていません。

動画を見る

不思議な黒猫紳士のオカるーと

動画の見どころ

  1. 1968年8月17日、一帯は猛烈な集中豪雨だったが、主催者は日本気象協会東海支部に問い合わせて乗鞍岳山頂は翌日晴れると聞いており、目的地の天気だけを見ていたと指摘される。

  2. 固定電話と無線しか連絡手段がなく、山間の国道にはバス15台が転回できる場所もないため、引き返す判断そのものが難しい状況だったと説明される。

  3. 23時33分の休憩地点で1.5km北の中山七里の土砂崩れを知り、予備乗務員の確認を経て、8月18日0時5分頃に車列は反転して名古屋方面へ引き返す。

  4. 後続9台が白川口駅に留まる一方、先行した6台は駅を過ぎて進み、0時40分頃に大規模な土砂で道を塞がれ、バスを含む30台近くが動けなくなる。

  5. 戻る道でトラックが脱輪して現場が混乱し、1時35分頃に駅方向、1時50分頃に名古屋方向でも土砂崩れが起きて、車列は前後を塞がれたと語られる。

  6. 2時11分、長さ約100m・幅10mの岩盤が約30度の斜面を滑り落ちて5号車と6号車を飲み込み、107人のうち生還したのは窓から投げ出された3人だけだったと説明される。

  7. 捜索のため下流のダムを放流し上流のダムを閉じて水位を下げる作戦が事故3日後に提案され、6号車は400m下流で見つかったが収容できたのは1人だったと語られる。

  8. 昭和44年に建てられた慰霊の塔はバイパス工事で道の駅へ移り、現場を迂回するトンネルが通れば痕跡は薄れる——記憶は都市伝説という形で残っていく、と次回へつながれる。

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