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未知の輪郭

検証怪談・心霊 / 災害・事故

事故の記憶はいつ物語になるのか 飛騨川の噂と御霊信仰の型

文=cicada 1123

大きな事故や非業の死のあとに現れる物語は、いつ、どんな順序で今の形を得るのでしょうか。

噂は事故の夜に立ち、形が決まるのは後になる

飛騨川の記事によれば、事故の直後から地元では「亡くなった乗客が帰ろうとしている」という噂が広がっていました。ただし、それが今よく知られた形——深夜のタクシーで乗せた客が消え、後部座席がぐっしょり濡れている——になるまでには、もう一段階あったと同じ記事は伝えています。青山墓地の話には水の要素がなく、事故の記憶と結びついて初めて「濡れた座席」が加わった。さらにテレビによって各地の似た話が影響し合い、型として完成したのだ、と。

同じ順序は、800年前の例にも見えます。崇徳天皇の記事は、血で大魔縁になると書いたという血書伝説が死後19年たってから現れたことに触れ、同時代の資料にも本人の歌にも恨みは見られないという指摘を紹介しています。恐れが先にあり、物語はその後で輪郭を得る。後白河天皇が相次ぐ異変を崇徳院の祟りと受け取り、罪を取り消して鎮めたことで、最強の怨霊という像が固まった——記事が描くのはそういう経緯です。

2本の記事は、扱う時代も出来事もまったく違います。それでも、出来事の直後に生まれるのは形のない恐れで、物語の形が決まるのはその後だという点では同じ方向を指しています。

新しい話は、すでにある器を借りて立ち上がる

飛騨川の記事が並べる系譜は長いものです。東京・青山墓地の話は1959年に収録された『日本の幽霊』が元だと言われ、出来事自体は昭和1桁の頃らしい。自動車のない明治には人力車で乗せた客が消える怪談があり、海の向こうには「復活のメアリー」があって、こうした話はまとめて消えるヒッチハイカーと呼ばれる。器は先にあり、事故の記憶はそこへ注がれた——飛騨川の噂が「濡れた座席」という一点で他と区別されるのは、そういう順序だからだ、というのが記事の見立てです。

怨霊の側にも同じことが起きています。崇徳天皇・菅原道真・平将門を「日本三大怨霊」として束ねる言い方は古代からあったものではなく、江戸期の読み本や歌舞伎の影響で広まったと記事は紹介しています。個々の伝承が先にあり、それを三つに揃える枠は後から来た。

器の側から見ると、噂の広がり方の説明が少し変わります。飛騨川の話が中部地方で定着したのは、事故が特別だったからというより、受け皿になる話型がすでに全国にあり、そこへ地元の記憶が入ったから——2本の記事はどちらもその方向を向いています。

物証を並べた側ほど、確かめる手立てが残らない

同じ飛騨川の現場で撮られた霊視の記録は、噂とは逆の方向へ進みます。目撃談から始めて、写真に写ったモヤ、自動書記で書かれた氏名、赤外線カメラに浮かぶ顔、そして赤い液体の鑑定へと、物証らしきものを一つずつ積み上げていく構成です。番組は、書かれた名前が追跡調査で実在の犠牲者と判明したとし、赤い液体も鑑定の結果は人間の血液だったと報告しています。

ところが、その一つ一つを後から確かめる手立ては、映像の中に残っていません。照合に使った資料も、鑑定を行った機関も示されないままです。番組自身、赤い液体について「事実とすれば驚くべき超常現象だが事実関係は確かな検証を待たなければならない」と断り、赤外線カメラの顔についても、霊魂の姿なのか光と影のいたずらなのかと問いかけたまま先へ進みます。

比べると、将門塚の扱いは対照的です。撤去に関わった人が相次いで亡くなった、落雷があったという祟りの話に対して、工事とは無関係だという指摘や、その日は都内20カ所に落雷があったという反証が並べられている。同じ「祟り」でも、いつ・どこで・何件という形で語られたものは検証にかかり、そうでないものは残らない。突き合わせた範囲では、霊視の記録はまだ後者の側にあります。

説明のつかない連続死に、答えが出た例もある

壁紙のヒ素を扱った記事は、この問いに別の道筋を示します。1900年代初頭のインディアナ州で、同じ家の妻が3人続けて3月に亡くなりました。呪いにも連続殺人にも見える並びですが、3人はいずれも死の直前に、春の大掃除で同じ応接間を掃除していた。緑色の壁紙にはヒ素が含まれており、埃を払ったときに舞い上がった微粒子を吸い込んでいた——町医者が壁紙を検査して、そこまで辿り着いています。

物語ではない答えが出たのは、確かめられる対象が現場に残っていたからです。壁紙は剥がして調べられました。飛騨川の現場で語られる、慰霊碑の前に立っていたという水玉のワンピースの女性には、そうした対象がありません。ホテルの怪談を集めた記事でも、霊能者が悪霊ではなく神のような存在がいると判断した、約10人の霊媒師が叫び声とともに倒れていったという体験談が並びますが、確かめる先はやはり残っていない。

どちらが上ということではなく、分かれ目がどこにあるかという話です。残った物に手が届けば原因の側へ、届かなければ物語の側へ。飛騨川の噂が長く語られてきた背景には、川に飲まれて今も見つかっていない人がいるという、確かめようのなさそのものがあります。

碑が移り、道が迂回したあとに残るもの

御霊信仰が記憶を留めてきたやり方は、場所と祭祀でした。崇徳天皇の記事は、天災や疫病を非業の死を遂げた者の怨霊の仕業とみなし、神として祀って鎮める信仰だと説明したうえで、明治天皇が1868年にその霊を京都へ戻して白峯神宮を建て、昭和天皇も1964年に慰霊式を行ったと伝えています。場所を決め、そこで繰り返す。数百年をまたいで記憶が続いたのは、その形があったからでしょう。

飛騨川では、その形がいま動いています。バイパス工事によって慰霊碑が人々の目に触れる機会は確実に減っていく、と語り手は述べ、だからこの動画がその代わりになればいいと言い添えます。碑が移り、道そのものが現場を迂回したあと、記憶を運ぶのは場所ではなく話のほうになる——祀って鎮めるかわりに、噂と映像で残していくということです。

そう考えると、この土地に残った「濡れた座席」の噂は、単なる作り話とも少し違って見えてきます。突き合わせた範囲でそれ以上のことは言えませんが、記憶の器が場所から物語へ移り替わる途中に、いま私たちは立ち会っているのかもしれません。

突き合わせて言えたこと

  • 複数の記事が一致噂は事故の夜に立ち、形が決まるのは後になる

    非業の死のあとの物語は、出来事の直後に完成するのでしょうか。それとも後から形を得るのでしょうか。

  • 複数の記事が一致新しい話は、すでにある器を借りて立ち上がる

    事故のあとに現れる噂は、まったく新しい形で生まれるのでしょうか。

  • 決められなかった物証を並べた側ほど、確かめる手立てが残らない

    霊の実在を機材や鑑定で示そうとした記録は、あとから確かめられるのでしょうか。

  • 前提の整理説明のつかない連続死に、答えが出た例もある

    不可解に見える死の連鎖は、必ず物語のほうへ向かうのでしょうか。

  • 前提の整理碑が移り、道が迂回したあとに残るもの

    現場の痕跡が薄れたとき、事故の記憶はどこに残るのでしょうか。

参考記事

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